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第7回 客体(オブジェクト)から主体(サブジェクト)へのシフト

ドラッカーの<もうひとりのキルケゴール>

NAMI

ごめんなさい。
だけど、いろんな人が、日本はこう変わっているとかこうなるとか言ってますが、結局、今言っていることになってしまうんです、、、私としては、、、新しい共同体を作るということも、客体を変えるだけで、肝心の主体、つまり<個>に注意を払っていませんね。

大久保

そうですね。

NAMI

注意を払う必要のあるのは、主体である<個>(セルフ)だと、私は思います。

大久保

わかりました。
なみさんの最大の関心事が、そこにあるようですから、いい機会ですので、このテーマを一緒に掘り下げてみましょう。
さきほど、ドラッカーが、会社共同体が崩れゆく日本の先行きを心配して、新たなコミュニティの形成をアドバイスしていることを述べましたが、ずいぶん以前に、彼は、なみさんの言う<個>の問題を取り上げているんですね。

NAMI

それは、どういうものですか?

NAMIさんのネーミング子育て
大久保

終戦後の1950年代に、<もうひとりのキルケゴール>という短い論文を、彼は書いています。
経営学者としてスタートする前です。
そこで、ドラッカーは、<個>として生きることができるためには、どういう生きかたが必要かを描いている。
 昔、これを読んで、ドラッカーの根幹にある思想だと感銘を受けたことがあるんです。

          ・・・・・ <もうひとりのキルケゴール> ⇒ 【註 

NAMI

すこし説明してください。

大久保

私なりに要約して話しますね。
ドラッカーは、個人が<個>として生きるためには、ふたつの在りかたを自覚しなければならないというんです。
ひとつの在り方は、<社会的自我>というものです。
これは、私たちの日常の普通の状態ですね。
特別なことがない限りは、100%近く、私たちは、この社会的自我として日々過ごしています。
もうひとつの在りかたは、<霊的自我>というものです。
こちらのほうは、日常生活で私たちが意識することはほとんどないです。

<霊的自我>は眠っているといったほうがいいでしょう。
しかし、あるきっかけで、眠りから目覚めることができる。
いったん目覚めると、それを無視することができなくなる。
そして、このふたつの在りかたというのは、その本質的な性格上、互いに相いれない関係にあるのです。
<社会的自我>として生きようとすると、<霊的自我>を否定しなければならない、、、
<霊的自我>を生きようとすると、<社会的自我>を否定しなければならない、、、
両者はそういう二律背反の関係にあり、両者の間には断絶があるというのですね。
しかし、断絶があり、そして二律背反の関係にある、その両者を<同時に>生きようとするところに、<個>としての在りかたの未来があるというのです。
論理的に考えると不可能な、そういうアンビバレントな在りかたを意識することで、<個>の主体が目覚め、最終的にはその二律背反を超えていくことができるという、、、
ドラッカーは、そういう思想を、20歳前後の時期に、キルケゴールからもらったのですね。

          ・・・・・ <社会的自我>   ⇒ 【註◆
          ・・・・・ <霊的自我>    ⇒ 【註】
          ・・・・・ <二律背反の関係> ⇒ 【註ぁ

NAMI

そこで言われている社会的自我というのは、オブジェクト(客体)にあてはまるようですね。
そして、霊的自我が、サブジェクト(主体)に重なるようです。

大久保

そうだと思います。
ドラッカーのこの思想は、この小論以外の彼の著作集には見られないんですね。
ドラッカーにしては、まれな文章なんです。
彼の著作のほとんどは、社会的自我のほうの世界をとりあげているのです。
社会的自我としての個人が、社会における<位置>と<役割>をどのように獲得し、<自由>を実現するのか、社会はそれをどのようにして可能にし保証するのか、という観点から書かれているのです。
なみさん流にいうと、バラバラになった細胞のための身体を、どのように再構築すればよいのかというのが、彼の社会文明論であり、企業論であり、経営学なんです。
要するに、客体についての話です。
<もうひとりのキルケゴール>のみが、<主体>をテーマにしており、それ以外の著作はすべて、<客体>を扱っているといっていいと思います。
なぜ、ドラッカーは自身の仕事として、社会的自我つまり客体を重視したかというと、社会的機能が崩壊すると、社会的自我がその存立基盤を失い、民衆は群衆と化して、ファシズムが到来するという深刻な現実を、第一次大戦後の欧州社会で身をもって経験したからです。
だから、彼は、社会的自我の基盤づくりに注力したわけです。
それが、彼の専門とされるマネジメント論へとつながります。
ドラッカー自身は、キルケゴールの思想を通じて、霊的自我を踏まえた<個>としての進化の営みを自覚していました。

そして、<個>の育成こそが、ファシズムに対する最強の砦となることを認識していた。
しかし、そのような<個>の育成に積極的な興味を持ち、その実現にチャレンジするという人は非常に少ない、、、戦後の大衆社会の歴史のなかでかえりみられることはないだろうと考えていたようにも思います。
ですから、彼は、直接的に<主体>を語ることは無かったんですが、そのための土台になるような指針は、ビジネス論にからめて多く示していました。
<セルフマネジメント>や<知覚>を論じた文章の中には、そのエッセンスを多く見ることができます。
なみさんのEQプログラムに通じるものがあると思います。
しかし、現代にいたって、ようやく、客体としての<社会的自我>の基盤づくりだけでは、もうもたないということが、一部の人に理解されつつあると思うんですね。
私自身も、主体としての<個>の育成が、以前よりも切実になってきていると感じています。

NAMI

私の言う<個>(セルフ)は2元性を超えている意味合いがあるので、ドラッカーの<霊的自我>と、どのように重なり合うのか明確ではないですが、、、何れにしろ、経営学の教祖のようなドラッカーが、<個>の思想を持っていたというのは、意外です。

大久保さんの今のお話で、彼の知られざる一面がわかったような気がします。
また、ドラッカーが、ファシズムという深刻な経験から、社会的自我つまりオブジェクト(客体)に、注意を向けてきたということも理解できました。
でも、個というもの、それからサブジェクト、つまり主体、こうした存在に、いままではあまりにも注意がはらわれてこなかった。
オブジェクト(客体)にばかり、注意が向いていた。
今でもそうです。
そのつけが、今きているような気がします。

大久保

おっしゃるとおりだと思います。
<主体(サブジェクト)>と<客体(オブジェクト)>という難しげな言葉が続いていますが、ここで説明をしておいたほうが良いかもしれませんね。

主体と客体とアウェアネスについて

NAMI

そうですね。
主体・客体という日本語が、自分にぴったり合った語感として身についていないので、サブジェクト・オブジェクトと言ってしまいますが、、、

大久保

もっとわかりやすい日本語を使えればいいんですが、、、
普通に使われている意味合いとちがってきますから、混乱しかねないですね。
私たちが一般に言う<主体>(サブジェクト)は、身体を持った自分自身のことを指しますね。

NAMI

この身体のなかに自分がいるという、、、

大久保

それを<主体>(サブジェクト)と、私たちは呼んでいますが、NAMIさんにとっては、それは<主体>(サブジェクト)ではなくて、<客体>(オブジェクト)なんですよね。

NAMI

そうです。
ほんとの主体は<アウェアネス>のことなので。

大久保

これもまた難しい言葉ですね。
<アウェアネス>は、日本語に訳すと<気づき>ですね。
だから、私たちが通常使っている主体・客体の意味合いとは異なるわけですね。

NAMI

<アウェアネス>というのは、それらの元になっているものです、、、
主体・客体のおおもとである<アウェアネス>から話を始めたら、主体・客体などはないということになるんですね。
世界はひとつしかない。

形がなにもなくて、そして、ただ混沌とした存在として、意識と呼ばれる何かが〔あり〕、それイコールアウェアネスで〔あり〕、知るということで〔あり〕、、、無限の、変化しない、自らが光のもとで〔あり〕、、、その中にすべてが存在する。
自分が身体という物体だと思っていることも、体験的には、自分の感覚でしかない。
だから、世の中でいろいろなことをしている自分は、主体ではなく客体であるし、客体というのは昔から言われているように幻想でしかない、、、というふうに、私は考えているんですが、大久保さんはどう思います?

          ・・・・・〔あり〕 ⇒ 【註ァ

大久保

ずいぶんと難解な内容になってきましたが、ここはすこし踏んばって、話を続けたいと思います、、、
というのは、今話しているこのことが、<わたし>という個人の未来にとっても、社会の未来にとっても、本質的で大切なことだと考えるからです、、、ということを踏まえて、私なりの理解をすこし話しますね。

<わたし>というものが自分自身をふり返ってみるとき、ほぼ100%、それは客体としての自己です。
さきほど話した、ドラッカーの言う社会的自我ですね。
誕生以来、<わたし>は、赤ちゃんであり、子どもであり、夫(妻)となり、父親(母親)となり、会社人となり、部下であり、上司であり、友人であり、国民であり、定年退職者となり、老人となる、、、それらのすべてが、客体としての自己です。
パーソナリティは、社会のペルソナ(仮面)であり、それは社会で始まり社会で終わる。
鏡に映っている自分を自分だと思っているけれど、これも客体です。
また、内面に見る、さまざまな心理的な自分も、すべて客体です。
一方、主体はなにかというと、そういう客体として生きている自分を見つめている意識です。
通常、この主体は客体に吸収されて、眠っている(ような状態にある)。
よほどのきっかけがない限り、それが眠っていることに気づくことはないですね。
なんらかの理由で、客体から引き離されると、それが目覚める。
現実がつらかったり、疎外されたり、違和感を感じたり、大病を経験したり、人生の折り返し地点を過ぎたり、、、きっかけはいろいろあると思います。
それを契機にして、注意が客体からそちらに向かう。
さっき、なみさんが<境域に立つ>というところにいるのではないかと話しましたが、どちらにも同一化できないというところから、どちらの客体からも離れて、両方を見る視点へと、注意がシフトする。
そこに気づきが生まれる、、、<境域に立っているのはいったい誰なのか>というところに生まれる気づきです。
それは、すべての客体を差別なく全体として一様にみつめている意識で、そこにはなんの付随物も飾りもない、、、身分も人格も気質も思考も感情もそぎおとされた<まなざし>そのもの、つまり純粋意識というようなものです。
さきほど、なみさんが説明されていたことと同じだと思います。
放っておくと、この純粋意識はすぐに途切れてしまう。
日常は、生活する意識のほうが大事だから、それは生活意識におおわれてしまうんです。
しかし、意識的に生活意識のおおいを取りのぞくようにすると、純粋意識が持続するようになる。
ここで、ようやく、主体が確立されてくる、、、主体意識といったほうが良いかも知れない、、、
この主体意識が目覚めるまでは、<わたし>の世界には、客体しか存在しない。
客体のいろいろなペルソナや断片に自己同一化して生きている。
夢のなかにいるようなものです。
夢から覚めるためには、注意を客体から主体へシフトする必要があるわけです。

NAMI

私もそのとおりだと思います。

その注意のシフトがないと、<シフトが無い>のです。
何をやっても(doing)、同じなのです。
beingが同じですから。
いつか、ラマナマハラシのことを話しましたが、彼の系統の教えもそれと同じです。
究極的には、真の主体である<アウェアネス>しか存在してなくて、(仮の)主体はすべて客体であり、すべての客体<幻想>ですね。
言葉を変えると、客体は、真の主体<アウェアネス>の表現物だということです。
身体とマインドを持つ私が<わたし>であるという信じこみから、アウェアネスへのシフトが最初の一歩です。

          ・・・・・ <幻想> ⇒ 【註Α

大久保

しかし、<アウェアネス>へのこのシフトが難しいですね。
カメラはなんでも写すことができるけれど、カメラがカメラ自身を写すことができない、、、
そういう難しさがある、、、

NAMI

同じように、こんなふうにたとえてもいいかもしれないですね、、、
客体は、映写機が映した映像のようなもので、主体は映写機のほう、、、だとすると、注意を映像から映写機にシフトする、、、

大久保

なるほど、、、
いずれにしろ、光で照らされた対象ではなくて、光源自体に気づくことができるかどうか、、、ですね。
その光源自体がどういうものか、、、を描いた小説というのがあって、そこからヒントが得られることがあるのですが、、、そういうのはご存知ですか?

NAMI

いいえ。

大久保

小説というのは、光で照らされた対象、つまり客体を描くのが常ですが、なかには、光源つまり<アウェアネス>を描いたものもあるんです。

NAMI

それは、どういう小説ですか?

【註 曄 磴發Δ劼箸蠅離ルケゴール>は、『すでに起こった未来』所収の短い論文です。この論文についての解説は、下記のブログをご覧ください。(大久保)

 http://watasitokigyou.blog.fc2.com/blog-entry-34.html

【註◆曄 禺匆馘自我>

<社会的自我>について、ドラッカーは<もうひとりのキルケゴール>で「“時間”の中に生きる“社会における市民”」と表現し、次のように解説しています。

「時間における実存とは、現世における市民としての実存である。時間における実存として、人間は食べ、飲み、眠る。征服するために、あるいは自らの生命を守るために戦う。子供や社会を育てる。成功し、失敗する。そして、時間における実存としての人間は死ぬ。時間における実存としての人間は、死んだ後に何も残らない。したがって、個人としての人間は、時間における実存としては存在しない。個々の人間は種の一員にすぎず、連綿としてつづく世代の鎖のなかのひとつの環にすぎない。種そのものは、時間において独自の生命をもち、独自の属性をもち、独自の目標をもつ。しかしその成員は、種を離れては、いかなる生命も、属性も、目標ももつことはできない。個々の人間は、種の中にあって、種を通じてしか実存することはできない。そして、種という鎖には始まりと終わりがあるが、鎖を繋ぐ環のひとつひとつは、過去の環と未来の環を繋ぐだけの存在である。鎖から外されてしまえば、スクラップにすぎない。時間という歯車は回り続けるが、そのひとつひとつの歯は、取替えや入替えができる。個人の死が、種や社会を終わらせることは無い。単に、その人間の時間における生活を終わらせるだけである。時間においては、人間の実存は不可能である。可能なのは、社会の存在だけである。」(大久保)

【註】 <霊的自我>

<霊的自我>について、ドラッカーは<もうひとりのキルケゴール>で「“永遠”の中に生きる“精神における個人”」と表現し、次のように解説しています。

「永遠の領域、すなわち精神の世界においては、そしてキルケゴールの言う“神の目から見れば”存在しないのは、社会のほうである。存在することが不可能なのは 社会のほうである。永遠の領域で実存するのは、個人のみである。永遠の領域では、個々の人間が独自の存在である。孤独の内に、まったくの孤独のうちに、隣人もなく、友人もなく、妻や子もなく、みずからの精神と向き合う。時間の領域、すなわち社会という領域では、個々の人間は無から始めて終わりを終わりとすることはできない。個々の人間は、先人たちから時代の遺産を受け継ぎ、それをごく短い期間担い、後の人たちに引き渡していく。しかし、精神の領域では、 個々の人間が始まりであり、終わりである。祖先の経験は何ひとつ役に立たない。個々の人間は、恐ろしい孤独の中で、完全に独自の唯一の存在として、みすからとみずからの内なる精神以外には、全宇宙に何も存在しないかのようにみずからと対峙する。」(大久保)

【註ぁ曄 禺匆馘自我と霊的自我における二律背反の関係>

ドラッカーは<もうひとりのキルケゴール>で、「社会的自我(社会的実存)」と「霊的自我(精神的実存)」における<二律背反>について、次のように述べています。

「(1)社会における実存のためには、社会の存続に必要な客観的なニーズが市民の機能と行動を決定しなければならない。しかし、精神における実存のためには、孤独な個たる自分と神とともにある自分の法と規範以外に、いかなる法も規範も存在してはならない。」
(2)社会のなかで実存しようとするならば、社会にとって意味のないこと以外については、いかなる自由もない。しかし同時に、人間が精神の中でも実存しようとするならば、社会にとって重要な問題についてさえ、いかなる社会的な規範も制約もあってはならない。」
(3)社会における実存として、人間は、社会の価値観や信念、報酬や懲罰の世界を現実のものとして受け入れる。しかし、精神における実存、すなわち“神の目から見た”存在として、人間は、社会の価値観や信念の一切を、完全な欺瞞・虚飾・不実・無効・幻想とみなさなければならない。」(大久保)

【註ァ曄 未△蝓佑箸いΔ里和減澆里海箸任垢諭F本語はこういった点がすばらしいと思います。日常生活に存在を示す言葉が何気なく使われている。もちろんラテン語もその流れを汲む言葉もそうですが、、、est、 is、、、 とか、、、I am 、私存在はNamiであります、、、とか、、(NAMI)

【註Α曄 禪諺曄笋箸いΩ斥佞砲弔い討亘寨萓睫世必要ですが、込み入った話になるので省きます。(NAMI)




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