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第8回 わたしは誰か?

アウェアネスの表現

大久保

いろいろありますが、著者が明確に意識して、アウェアネスだけにフォーカスした小説としては、Pヴァレリーの『テスト氏(ムッシューテスト)』があります、、、

NAMI

知りませんね、、、
それは、何語で書かれてます?

大久保

フランス語。
わたしは、日本語の翻訳で、学生時代に読みましたが、、、

NAMI

どういう内容なの?

大久保

説明しづらいんですが、、、
小説の筋やドラマを楽しむというような楽しみ方を求めると、つまらないと感じるかもしれない、、、

ムッシューテスト

しかし、著者がそういう意識で、つまり<アウエアネス>(主体)を描こうとしたというところに留意して読むと、面白く感じます。
一言で言うと、デカルトの<コギト>にならって、ヴァレリー自身の<コギト>を描いたものです。
ヴァレリーは、デカルトを尊敬していて、デカルトの<コギト>に触発されて、『テスト氏(ムッシューテスト)』を書いたと言われてるんです。

NAMI

それ、ものすごく興味があります。
デカルトのコギトも、ほんとはよく理解されていないらしいですね?

大久保

そうだと思います。
ひところ、<要素還元主義>や<機械論>などの近代主義思想を否定するために、デカルトのコギトを批判する人が多かったですが、おおいに誤解されてますね。
<コギト>を自我と呼んで対象化してしまったので、間違ってしまった。
アウェアネスのことですから、、、対象化できないんです。

NAMI

客体という呼び方より、対象と言ったほうがわかりやすいかもしれませんね、、、

いずれにしろ、本来、客体や対象ではない、アウェアネスに関する話を、オリジネーターたちはしているわけですね。
キリストにしろ仏陀にしろ、彼らは自分で書きはしなかったけれど、口頭で教えを説いた。
それを解釈する人たちが、客体の話にもっていってしまうわけね。

大久保

そうですね。
言葉が持つ宿命で、どうしてもそうなってしまう。
デカルトのコギトも、書いたのはデカルト自身でしたが、それを受け取るものにとっては、同じ運命をたどってしまった。
コギトは単なる概念ではなく、自分の内に感覚化し、それを純化というか深化させていかないと、ほんとの理解にならないと思いますね。

NAMI

真の主体であるアウェアネスについて書いても、読者は、アウェアネスではなく、エゴとして受け取ってしまうのなら、、、結局は書かないほうがいいのかなぁ(笑)

大久保

ただ、言葉は読む者の意識とともに変わっていくので、エゴからアウェアネスに変容する、その可能性を信じるということですね。
そういう意味で、興味深い小説をもうひとつ紹介すると、、、
有名ですが、ドストエフスキーの『罪と罰』は読まれました?

NAMI

読みましたよ。
深く読んだわけではないですが、、、

大久保

この小説は、読む者の意識で、まったくちがう物語になるんです。
一般には、<犯罪と救済>の物語とみられていますが、<主体と客体>の話とも読める。
ただ、アプローチの仕方がユニークですが、、、

罪と罰

ドストエフスキーは、あそこで、従来にない典型的な人物像を描こうとしたんですね。
それは、すべての<客体>を否定した人物像というものです。
主人公は、ラスコールニコフという貧乏青年ですが、社会的な属性や教説をすべて否定して、頭の中をそういうネガティブなおしゃべりで一杯にするわけです。
自己否定も極限まで貫かれて、<何者にもなりたくない>人物として描かれている。
しかし、<客体>の否定の果てに、本来は現れてくるはずの<主体>の自覚は、彼に訪れてこない。
そこが、この主人公の特徴的なところで、作者はそこにとても注意をはらってるんです。
この世の中の実体的なものをすべて消し去っても、彼岸のリアリティが新たに生まれてこない、その間の空白のようなものにフォーカスしている。
つまり、主人公は虚無の世界にポツンと立つ、無自覚な純粋意識のような姿なんです、、、
にもかかわらず、社会の中で生きつづけねばならない、、、
客体でもなく主体でもない、そういう意識を持った人物が、世間の真っ只中に放りこまれて、否応なしに他者と関わり、<客体>として生きていかねばならない、、、というところに、この小説が成立しているんです。

NAMI

そういうふうには読まなかったですが、、、面白い解釈ですね。
たしかに、客体を否定するというのは、アウエアネスに向かうプロセス段階のひとつですね。
でも、最終的には、アウエアネスは客体もすべて含みますから、、、最後は、否定から肯定に転換しますね。
十牛図の最終段階の絵図もそのことを表してますでしょ、、、
でも、<本来の姿>が顕れるだけだとも言えますね。

大久保

<アウェアネス>は、その人にとってのさまざまな気づきの段階がありますが、最後はすべてが一体になると言っていいし、最初からそれは一体であると言ってもいいのだと思います。

十牛図の最終段階もそうですね、、、
絵図の最後の数枚は、自我も外界も個別的な世界はすべて消えて、そこからあらためて森羅万象や他者が現れて、主体が客体の世界に帰還する様子が描かれている、、、そして、最初の一枚目の絵図に戻るような流れになっている。
アウェアネスの見え姿がさまざまに変化していくけれども、おっしゃるように、その流れの根底には、<本来の姿>が変わらずにあるという、、、

NAMI

たしかにそうですね。
日本の小説についてはどうですか?

大久保

どうなんでしょうか、、、

近代絵画

日本の小説はよくわからないですが、小林秀雄の評論『近代絵画』は、アウェアネスのことを書いていると思ってます。
この本は、印象派の画家をとりあげているのですが、セザンヌの<サンサシオン(感覚)>やピカソの<アタンシオン(注意)>を題材にしながら、<アウェアネス>のある側面を掘りさげています。

           ・・・・・ <ピカソのアタンシオン(注意)>  ⇒ 【註 

NAMI

その本には興味がありますね。
前に、ルパート・スパイラの話をしましたでしょ、、、

ルパート・スパイラ

大久保

ええ、聞きました。

NAMI

ルパートも、セザンヌが好きで、彼の絵からいろいろ示唆を受けているんです。
ですから、『近代絵画』は読んでみようと思います。

大久保さんの話も、ルパートの言っていることと重なるところがありますね。
言葉の表現はずいぶんちがってますが、言わんとしていることは共通していると感じます。
最近、彼の本が、日本でもやっと翻訳されたようですよ。

大久保

先日、なみさんから教えていただいて、さっそく買いました。
『プレゼンス』というタイトルです。
まだ途中までしか読んでませんが、とても面白い。
この人はどういう人なんですか?

NAMI

ルパートは英国人で、ラマナマハラシの系統の思想家のひとりなんです。
私は、随分前から、ラマナマハラシ系の思想に傾倒して学んでいるんですが、そのなかでも、ルパートの考え方が自分に一番フィットしていると思ってるんです。
<自分が誰なの>ということを、体験的にとことん追求した人です

プレゼンス

感性がすごく繊細で優雅で、しかも知的で論理的でもあり、表現力が卓越しているの、、、
頭でいくら理解できていても、日常でのリアクションにはエゴがでてきますでしょ、、、
そういうところに瞑想で光をあてるというような、体験的なセッションをやってる人です。
よくある体験セミナーが言っているような体験ではないですよ。
ルパートの提供しようとしている体験というのは、自分は本当は誰なのということに目覚める、、、
それを、普通は悟りとかいうんでしょうが、、、そういう体験のことです。
誰か偉い人が言ったことを信じるとか、そんな要素がなく、自分の体験だけを手がかりにして、探究していけるところがいいんです、、、
私にとっては、さがしている道具が手に入ったという感じで、すごく良かったんです。

大久保

自分の体験だけを手がかりにして探求すると、どういう理解にいたるのですか?

NAMI

私たちは、物体としての自分の身体があると思っているけど、ほんとにどうなのかというと、自分の感覚でしかない、、、
唯一あるのは、エゴ的な個人ではなくて、形も無い意識、、、

そこから、自我が意識として生まれてきて、物体ができてきている、、、
物体がほんとにあるのかどうかわからないけど、、、
つきつめていくと、確かなものは<体験>しかないんですね。
<体験>というものをよく見ると、体験されるものと体験するものとが分かれているのではない、、、
体験を知るものと知られるものという二つの存在があるわけでもない、、、
体験は体験自体であって、純粋体験だけがあるということ、、、

大久保

仏教にも、<念仏が念仏する>とか<座禅が座禅する>という言葉がありますね。
<体験が体験する>というのは、主語や主体がすべてそぎ落とされた、リアリティの真髄に参入するということなんでしょう。

NAMI

そぎ落とされた主語や主体というのは、それらは実はすべて客体なんですね。
その<体験>こそが、真の主体なんです。
<体験>が、存在しているものであり、気づきであり、世界である、、、
だから、究極的には、この世界には<体験>しかないし、体験の体験自身への気づきである<アウェアネス>しかないし、つまりは<真のわたし>しかいない、、、
身体とマインドを持つ私を、<わたし>であると信じていると、世界と自分は別のものであって、ふたつは分離したまま相容れないものになります。
<アウェアネス>に<わたし>がシフトすれば、存在と気づきと世界は分断されないで、ひとつになるのです。
感覚として、そういうことが明確になると、次の段階に入ることができる、、、
それが、私にとって、次の仕事になってくると思っています、、、それが、私のSQです。
今ここで話しているようなことを考えとして理解するのは、難しくないんです。

しかし、実際にそれを生きることができるかというと、主体から分離した自分(つまり客体)が、感覚や感情とともに、身体に組み込まれてしまっている、、、
だから、日常生活での反応が変わらない、、、
タバコを吸ってはだめだとわかってても、無意識についつい吸ってしまう、、、
からだからそれを解放しないかぎり、わかってても実行できないのと同じなの。
からだをそこからどのようにして解放するか、、、
それが、SQプログラムの課題のひとつになると思っています。

大久保

なみさんの個の変容プログラムは、IQ(知性)、EQ(感性)、SQ(霊性)に分かれていましたが、
SQのプログラムはどういうものか、もうすこし詳しく教えてもらえますか。

【註 曄 礇團ソのアタンシオン(注意)>

小林秀雄は『近代絵画』の中で次のように語っています。

「ピカソの言う<アタンシオン:注意>は、普通の意味とは逆だ。純粋な知覚が普通の意味での<注意>に転落しないための<注意>である。」

そして、こんなエピソードを紹介しています。

「ピカソの秘書のサルバテスが、ピカソの気違いじみた蒐集癖について書いている。彼の部屋は、理由もなく集められた、あらゆるくだらぬ品物やがらくたや屑などが一面に散らかった迷宮のようなものだ。ある日サルバテスが、なぜ散らかしたままにしておくのか、と聞くと、ピカソは、散らかしたから散らかっているのではない、片付ける理由がなかったからだと答えた。」と言い、、、「ピカソに関する本はいろいろ読んだがこんな面白い話はない。これはほとんどピカソの制作の原理を表している。」と続けています。

なぜ片付ける理由がないのか?、、、というよりも、私たちはなぜ片付けるのか?、、、片付ける理由とルールと方法はどこから来るのか?、、、という問いが、<注意力>という言葉の逆説的な意味合いを明らかにします。
普通は、、、コップは食器棚に、、、本は書棚に、、、ガラクタはゴミ箱に、、、と、個々のものを弁別して、あるべき場所に収まるように、日常的な<注意>を払います、、、そうした<注意>の用い方をしないように注意するのが、ピカソの<注意力>だと言うのです。


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